2016年04月08日
やたわかエッセイ第2話「政策に込める想い」私の挑戦。その意味は、…?パナソニックグループ労働組合連合会 副中央執行委員長電機連合・PGU公認 参議院議員予定候補 矢田 わか子
やたわかエッセイ第2話「政策に込める想い」
私の挑戦。その意味は、…?
パナソニックグループ労働組合連合会
副中央執行委員長
電機連合・PGU公認
参議院議員予定候補 矢田 わか子
早速、関係先や加盟単組への挨拶回りなど、
全国巡回が始まった。
ある日、私が組合役員になる前に所属してい
た職場の先輩の皆さんが、私の挑戦のことを
聞きつけ集まってくれた。その中に、すでに
定年退職をされた元人事担当のA先輩もお越
しになっていた。
その先輩は私にとって、本当にかけがえのな
い人である。
学生の頃、私の家庭は経済的に非常に苦しか
った。高校進学こそさすがに、「高校くらい
は、何としてでも出してやる。」
という父の強い勧めや周囲の方々からの支え
もあって、入学が叶った。
以来、弁護士になるという夢を叶えたいと勉
学に勤しんだが、その一方で5人兄妹の2番目
ということもあり、両親に負担をかけまいと
また妹や弟には学費の心配をさせたくないと
奨学金制度の助けを受けつつ、放課後はいく
つかのアルバイトをして学費と一部の生活費
を稼いだ。
それでも、父の病いは年を重ねるごとに悪く
なり、高校3年の進路について担任の先生から
問われた頃には、経済的に大学にいける余裕は
全くない状態だった。
それでも父は病床から、「お前一人にそんな
に迷惑をかけるわけにはいかない。何とかし
てやる。だから…」と言ってくれた。
嬉しかった。本当に嬉しかった。でも、…。
「先生。私、大学には行きません。」
きっぱりと告げる言葉とは裏腹に、我慢でき
ずに涙が溢れた。
先生は、そのような私の境遇を親身になって
理解し、就職先について一生懸命考えてくれた。
そして、自宅から通勤できることに気を配り
つつ、創業者である松下幸之助の生い立ちなど
を話し「誰にでも教育の機会がありチャンスを
与えてくれる会社だから」と勧めてくださった
のが松下電器であった。
そして、先生が会社と話を進めてくれた相手の
方が、当時、人事担当で採用にも関わっていた
そのA先輩であった。
先生の思いのこもった推薦の言葉を聞いたA先
輩は、「家族思いで、頑張り家。そして先生、
何よりあなたの心をも動かせる人。
そんな人材を、我が社は必要としている。
我が社に是非とも来ていただきたい。
しっかりと育てることを約束する。」
会場に入り私の顔を見るや否や、そのA先輩が、
私のところまで歩み寄って来た。
そして、当時を振り返り、「あの時の高校生が、
国政に挑戦するまでになったのか。俺の目は間
違ってなかった。」と溢れ出る涙を隠しもせず
に、そして、「僕は君のこれまでを見てきた。
君にならできる。」と、私の両手をぎゅっと握
りしめた。
その瞬間、苦しかった学生時代のことがフラッ
シュバックのように思い出され、気がつけば、
私も涙で顔がぐちゃぐちゃになっていた。
そして自分のような辛い思いを今の若者にさせ
たくないという思いがつのってきた。
『子どもが家庭環境に関わらず、等しく教育を
受けられる社会をつくりたい。』この政策が、
一つ目の柱になった。
また、巡回していたある日のこと。とあるパナ
ソニックの事業場を訪ねた。
組合役員・委員集会で、支援をお願いすべく一
方的に話したあと、参加者の一人が私の方に歩
み寄って来た。
「矢田さん、その節は大変お世話になりました。
おかげさまで、元気に頑張っています。」
その方のお顔を見て、10年程前の記憶が蘇って
きた…。
その工場は、業績不振で存続の危機を迎えていた。
そして、工場閉鎖の噂がまことしやかにささや
かれる状況となっていた。
そんな中、当時松下電器労組の中央執行委員と
して、その支部を担当していた私が、職場委員
との対話会で工場に赴いた日の出来事。
対話会の会議室に向かおうとしたとき、当該支
部の組合役員の皆さんが待ち構えており、委員
長室へと導かれた。
「矢田さん、労働条件を切り下げてでもこの工
場を残したい。今日はその相談にのって欲しい。」
状況は、ある程度は理解しているつもりだった。
しかし、すぐに業績を好転させるような特効薬
など、簡単に見つけられるはずも無い。
また、改革はそれを打つタイミングによって、
より大きなダメージにもなり得ることを過去から
学んでいた。
「私に何が出来るのだろうか?」
そんな不安が頭をよぎった。
「工場を残すためにはどんな痛みを伴う改革で
あっても、受け入れざるを得ないし、その覚悟
もある。組合員にも分かってもらえるためにも
協力して欲しい。」
委員長は声を震わせ、切々と私に訴えた。
彼らの「何としてもこの地に工場を残したい」
という心からの叫びに、私の心は震えた。
組合本部に戻った私は、早速当時の書記長に
訴えた。「この対応に全身で向き合いたい。
それが出来ないのであれば、組合役員をする
意味など無く、執行委員も辞める覚悟です。」
最初は、戸惑っていた書記長も、「当該支部と
いっしょにしっかり頑張りなさい。」と理解を
示してくれた。
以降、会社との協議、組合員への説明、労働組
合内での合意形成。当該支部と一緒に奔走した。
私にとって忘れることの出来ない、大切な記憶だ。
「矢田さん、あれからいろいろな改革がありま
したが、矢田さんと一緒になって頑張ったあの
時の事を思い出し、その都度みんなで協力しな
がらできる限りの手を尽くしました。
その結果、多くの仲間が今も頑張っています。
そして、多くの後輩も新たに仲間に加わりました。
幸せですよね。
心から、そう思います。
本当に、ありがとうございました。」
巡回から数日後、その委員長と再び会う機会を
得た。
政策への想いにあらためて気付かせてくれたこ
とへの御礼を述べた。すると、私の手をとり、
「あの時は、本当にしんどかった。苦しかった。
だから、僕が弱音を吐いたときに、一緒に泣き
ながら、“何を考えてるの?何を言ってるの?
あなたがやらなくて、誰がやるの?“って、目を
覚まさせてくれましたよね。
そんなことまで、職場のみんなに話してしまって
いました。
そうしたら、
“矢田さんは誠実で信頼できる人だね。
そんな人こそ、社会に必要なのではないかな?
だから、今度は私たちの番。
みんなで応援しよう“と言ってくれたのです。」
工場で働く皆さん一人ひとりが力を合わせたから
だと言いたかったが、胸が熱くなりなかなか言葉
が出ない。「なんとしても、今後に活かして…」
と、携えた手にわずかな言葉を乗せるしか出来
なかった。
職を得て、収入を得る。
その収入で、衣食住はもとより、より多くのこと
を学び、生活を潤す趣味もする。
生活の根源が「働く」ということにある、とあら
ためて感じた。
『誰もが安定した雇用の中で、やりがいを感じて、
イキイキと働ける社会をつくりたい。』この政策が、
二つ目の柱になった。
これまでも自身の経験から、働く人の将来への不安
失望・憤り、また経済的に苦しい環境下にある多く
の子どもたちを何とかしたいという想いなど、社会
に対するさまざまな課題意識は持っていた。
が、今回の巡回時にいただいた組合員の声や、電機
連合本部とのやり取りを通じ、実現していきたい政
策が次々と固まってきた。
今も巡回中「この私に務まるのか?」と不安に思う
ときがある。
これまでの会社生活の中で、多くの女性社員や男性
社員の声を聞き、やはり行動をおこしていくことが
一番の早道と信じ、私自身も育児と仕事を両立する
ロールモデルとなり、その体験から会社の中でさま
ざまな制度の構築やしくみの変更などに取り組んで
きたことを思い出した。
こうした行動的な性格は、時に行き過ぎとお叱りを
受けることもあったが、私が行動を起こすときには
いつも、周囲のメンバーがそっと見守ってくれていた。
そう、私には仲間がいる。多くの人に支えられている。
「矢田さん一人で、戦っているんじゃない。僕たち
みんなの挑戦なんだ。」と言ってくれた時のことを
思い出した。
本当に、嬉しかった。ありがたかった。
私は、なんとしてでも、この声に応えなければならない。
全国巡回。私の挑戦の日々は続く。
【電機産業で働く私たちの代表 矢田わか子】
http://yatawaka.com/
【千葉県で暮らす私たちの代表 小西 洋之】
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